『天を映す早瀬』を読んだよ。

►2007/01/21 04:26 

天を映す早瀬 (創元推理文庫)

『天を映す早瀬』
"REFLECTING THE SKY"

作:S・J・ローザン(S.J.Rozan)
訳:直良和美
発行:創元推理文庫

 ニューヨークで私立探偵をしているリディア・チン&ビル・スミスが織り成すハードボイルド・ミステリ・シリーズの第7弾。リディアはチャイナタウンに住む中国移民の娘で、ビルは白人のアメリカ人。ふたりで探偵事務所を構えているわけではなく、それぞれで探偵業を営み、仕事で相棒が必要になったときだけパートナーとして組む。

 このシリーズの特徴は、リディアとビルが一人称の語り手を作品ごとに交互に務めることで、今作『天を映す早瀬』はリディアの番。舞台はいつものニューヨークではなく、香港だ。同じ作者による同じハードボイルドでも、若く快活で鉄砲玉のようなリディアが語る場合と、重い過去を背負う寡黙でセンシティヴなビルが語る場合とでは、趣きや雰囲気がまったく異なる。自分と同じ女であるためか、リディアのパートには共感と理解をそそられることが多い。ただ、ビルがリディアを見る目の深遠さとぬくもり、なにより情愛の厚みをダイレクトに読ませてもらえるビル・パートの味わい深さは相当。いずれも大好きだ。

 いつも心から感心するのだが、S・J・ローザンと訳者は、「緻密な心理描写」と「臨場感にあふれる情景描写」を同時に「流れるように美しくて理解しやすい文章」で実現している。このシリーズを読むと、リディアとビルが呼吸をしているその土地へ今すぐ飛んで、ふたりが食べているのと同じ食事を取りたくなる。ふたりが歩いたのと同じ道を通りたくなる。ローザンの文章に触れると、アメリカ人が日常的に交わしている「軽い挨拶のキス」ひとつにだって、相手や状況によってどれだけ異なる想いや苦味や葛藤が交錯しているのかということが、切ないほどに薫ってくる。考えてみれば、あたりまえのこと。私たち日本人が普段口にしている「おはよう」や「ばいばい」や「お疲れさま」だって、相手やその状況によって温度や意味合いは、まったく違ってくるに決まっているのだから。

 リディアとビルは、恋人関係にない。しかし、互いが誰よりも大切に想っているのが互いであるという真実は、哀しいまでにあからさまに、たやすく伝わってくる。挨拶のキス、そして、心が弱ったときについ交わしてしまった優しい事故のようなキス ― ふたりのあいだにそれ以上の触れ合いはないのだけれど、リディアとビルはいつだって、相手を重く強固に求める渇望を心の奥底で横たわらせている。当然ながら、このシリーズの最たる魅力となっている関心事項のひとつが、リディアとビルの関係だ。ふたりの心は作を重ねるごとに強く確かに近づき合っているのに、唇や指先はなかなか相手へ這おうとしない。いわゆる「一線」をリディアとビルが越えようとしない理由はシリーズ読者ならわかるはずで、だからこそ急かすことはできないのだけれど、ふたりを見守り続けるにつけ、「心身共に愛し合う勇気をリディアとビルに持ってほしい」とも望まずにはいられないから、じれったさが募るのもしかたなくなってくる。

 今作のラストで、「こんな言葉がリディアの口から出るなんて!」と驚かずにはいられない一文を目にした。一方、彼女のその言葉に対するビルの反応と答えに、深く納得せざるをえなかった。傷ついた過去を持つビルだからこそ、未来を見据える目が冷静かつ切実なのは当然だ。

 また、このシリーズを読み続けていて、いつもつい口もとが緩んでしまうのが、食べ物や飲み物に関する描写に触れたときである。ローザンはとても美味しそうに、かつ、効果的に、飲食の描写を使う。作者の彼女自身が「食べる・飲む」ということを大切にしている人なのだろうな、と生活や人柄が垣間見えるような気さえしてくるのだ。グルメやフーディーにとっての華美で大げさな飲食ではなく、「日常的な飲食」を、温かく、優しく、力強く、ローザンは描き出してくれる。今作は舞台が香港だったため、活気あふれる屋台での炒め物や芳醇なお茶の香りが、ページから今にも立ち昇ってきそうなほどだった。

 ニューヨークから離れた異国の地・香港で、リディアとビルの心には確実な変化があった。次作はビルが語り手を務める"Winter and Night"。きっと、ニューヨークの厳しい冬が舞台となっているのだろう。邦訳が楽しみだ。リディアに対するビルの「今」の心情を彼の言葉で聞かせてもらえるのが、待ち遠しくてならない。

テーマ : 推理小説・ミステリー - ジャンル : 本・雑誌

本語り:海外ミステリ小説Trackback(0) | Top ▲

 | Blog Top |