『悲しみが乾くまで』を観たよ。
ちょっと「贅沢な立ち直りかた」ではある。
『悲しみが乾くまで』
"THINGS WE LOST IN THE FIRE"
2008年・アメリカ&イギリス・119分
監督:スザンネ・ビア
製作:サム・メンデス サム・マーサー
製作総指揮・脚本:アラン・ローブ
製作総指揮:ピッパ・ハリス
撮影:トム・スターン
音楽:ヨハン・セーデルクヴィスト
出演:ハル・ベリー ベニチオ・デル・トロ デヴィッド・ドゥカヴニー
アレクシス・リュウェリン マイカ・ベリー アリソン・ローマン 他
バーク一家は幸せで完璧な家庭だった。夫のブライアン(デヴィッド・ドゥカブニー)は仕事で成功して、妻のオードリー(ハル・ベリー)は美しく、ふたりの子供たち・ハーパー(アレクシス・リュウェリン)とドリー(マイカ・ベリー)も元気に育っている。しかし、ある日、街で喧嘩を仲裁したブライアンは射殺されてしまう。夫を突然失ったオードリーは、悲しみのあまり現実を受け入れることができない。そんな彼女は、夫の親友・ジェリー(ベニシオ・デル・トロ)に「一緒に暮らしてほしい」と頼む。ブライアンの幼なじみで麻薬中毒者のジェリーは、周囲から見放されていたが、ブライアンだけは彼とのつきあいを大切にして、決して見捨てることがなかったのだ。
今、私が一番好きなデンマークの監督スザンネ・ビアのアメリカ進出初作品ということで、日本公開をとても楽しみにしていた。
これまでに観たビア監督の作品を好きな順に言うと、『ある愛の風景』、『しあわせな孤独』、『アフター・ウェディング』だった。今回、『悲しみが乾くまで』を観たら、3位がこの作品になった。ただ、どの作品も胸に響きすぎたから(昨年観た『ある愛の風景』と『アフター・ウェディング』は、衝撃と感激がまとまらなくて、感想文が書けていないほど。今年こそ書きたい)、ビア監督の映画というだけで、私にとってはもう別格だ。「一生、忠誠を誓いたい!」と思える監督さんと久々に出逢えたのである。
『悲しみが乾くまで』の設定を知ったとき、「『ある愛の風景』とちょっと似てるなぁ」と思ったのだが、いざ観てみたら、感情の映し出しかたは全然違った。『ある愛の風景』には戦争が絡んでいるので、戦争体験のない自分には、衝撃的すぎて共感にまで至れない部分があったが、『悲しみが乾くまで』のテーマは、もっと身近で、年齢や経験を問わず誰にでも起こりうることだから、登場人物の気持ちを把握しやすかったのだ。
ごく普通に生きる人々の心にある、弱い面や脆い面を、「ああ、ここまでえぐっちゃうかぁ……」と、観ていて息苦しくなるほど、緻密で残酷に生々しく描写するのがビア監督である。特に、「喪失感」や「ずるさ」、「うしろめたさ」の表出が秀逸で、その容赦のなさが、私は好きでたまらない。
そういった徹底した感情描写はもちろん、音楽が控えめで静謐さ漂う映像も、具体的なストーリィが前面に出ない「キャラクターの生活を淡々とそのまま見せている」という印象の構成も、これまでのビア監督の作品と同じだったから、「アメリカ進出(それも、ドリームワークスの作品)っていうことで、いかにもアメリカっぽい映画になっちゃってたらどうしよう……」という不安は杞憂で終わった。「どこからどう観ても、デンマークのあのスザンネ・ビア!」という映像の中で、ハル・ベリーやデル・トロのような世界的に有名な役者が動いていることに、失礼ながら違和感を覚えたくらい。
……やはりというかなんというか、ビア監督の作品は今の自分にとって特別すぎて、この監督に言及するだけで興奮してしまうから、落ち着いた文章にならない。全然まとまらない。でも、支離滅裂のまま続ける。
で、『悲しみが乾くまで』の内容に関する感想は、ネタバレ気味に書くので、それでも構わないというかたは、↓《続き》↓へお進みください。
《続き》
「忠誠を誓いたい監督だ!」とまで言ったくせに、『悲しみが乾くまで』を褒めるつもりはあまりない、実は。
いや、よかったのだ、充分。ビア監督は追い続けたい。これからも。
ただ、今作、ハル・ベリー演じる主人公のオードリーが「環境的・金銭的に恵まれすぎている」のだ。それがもう、私にはひっかかってひっかかってたまらなかった。
普通、おとなが大切な人を失ったとしても、葬儀のためにせいぜい1週間程度しか休めないで、悲しいとかなんとか、とりあえず表面的にはぐちぐち言っていられないうちに、仕事に戻るなりなんなりしないといけない。だって、「生活していかなくてはいけない」から。生活費を稼がないとならないのだ。
だけど、オードリーは違う。射殺された夫のブライアンは、仕事で成功してリッチだったので、彼が突然いなくなっても「オードリーと子供たちは、なに不自由なく暮らしていけちゃう」というわけ。
オードリーは、夫が死んだという現実を受け入れられない。それはしかたないだろう。悲しいのも、喪失感を味わうのも当然だ。でも、彼女は「悲しくてたまらないの」という気持ちのままに、自宅にこもって無口になっている。ジェリーにやつあたりをする。でも、ジェリーはオードリーを責めるどころか、オードリーの気が済むまで、彼女の口から飛び出すきつい言葉を浴びる。
贅沢すぎるよ、オードリー。
一家の大黒柱を失った専業主婦が、「これからは自分で稼いで子供たちを育てなくてはならない」という金銭的にせっぱつまった問題にぶちあたることもなく、ただ悲しんでいる。泣いている。おまけに、そんな彼女のずるいわがままにつきあってくれる男までいる。
夫が死んで以来、上手に眠れていないオードリーが、あるとき、ジェリーにこんなことを頼む。「夫と同じように寝かしつけてほしい」と。同じベッドに横になって、体をぴったりくっつけて、「ジェリーに耳たぶを指でいじってもらう」。でも、当然、エッチはなし。オードリーは「眠りたいだけ」だから。まあ、ジェリーが彼女を抱きたいと思ってたかどうかはわからないけれど、いくらオードリーの心が「夫を失ったばかりで、悲しみの極限状態にある」からといって、これはジェリーに対しての気遣いが欠けすぎている行いに思えてならなかった。おまけに、彼女、こんなことしてもらった直後に、別件でジェリーにやつあたりするし。
「これ以上にないくらい、悲しくてつらい」という経験をしたおとなが、その苦しさが癒えるまで仕事をしなくてよいとしたら、そんなに恵まれていることはない。生活費や住む場所の心配をしないで、ただひたすら悲しみと向き合える時間と環境があって、おまけに慰めてくれる「おもり役」までいるなんて、最高の贅沢だ。「悲しいときこそ仕事があったほうが幸せだ」という人もいるかもしれないけれど、その仕事が好きでやり甲斐があるなら、そうだろう。でも、多くの庶民は「好きかどうかは置いといて、とにかく『食べていくため』に、給料制・時間給制で働いている」はず。忌引きで職場を休めるのだって、せいぜい1週間ってところだ。悲しみが癒えるまで時間を気にせず休みたい、なんて言ったら、クビになってしまうじゃないか。
……映画の感想じゃないなぁ、これは。ただの愚痴だ。
この作品を観たときの自分のコンディションは、お世辞にもよくはなかった。「生活をしていくこと」、「食べていくための仕事」、「これだけでは食べてはいけないけど、やりたい仕事」、「将来設計」、これらに関する理想と現実について悶々と考えてばかりで、考えれば考えるほど不安になって、最終的には、卑屈さのかたまりになっていた。「自分=卑屈」という図式が成り立つんじゃないかというくらい、醜い意味で気持ちがぐちゃぐちゃだったときに観た『悲しみが乾くまで』。……夫を失っていようがなんだろうが、オードリーの環境とライフ・スタイルが、私は羨ましくて羨ましくてたまらなかったのだ。
『悲しみが乾くまで』は、オードリーが立ち直る過程を描いただけの作品ではない。麻薬中毒者・ジェリーの再生の物語でもある。こちらのほうが、映画のハイライトともいえる。オードリーはジェリーに支えられたが、今度は彼女がジェリーを助ける側になるのだ。後半のこの展開、とても見応えがあった。
そう、確かに見応えはあったのだけれど、その頃にはもう、私はオードリーへの勝手な羨望と嫉妬でいっぱいで、心がぐるぐるになっていたから、巧みな構成に感心したり、ジェリーの更正を応援してあげたりするような気持ちの余裕がなかった。「私は自分を応援するので精一杯だよ!」という気分だったから。
人の心が抱える「つらさ」を切りひらいて細部まで徹底的に見せる、というビア監督の個性と色は、『悲しみが乾くまで』でもたっぷりと味わえる。この監督の世界観が大好きなことに変わりはない。
ただ、今後、「公開を待ち望んでいた映画」や「好きな監督の映画」は、心のコンディションが、完璧とまではいかなくても(ないよね、そんなときなんて)、「ちょっとはまし」程度になるまで待ってから観に行こう、と自分への反省として強く思った。……映画に失礼だったんだよ、こんな気持ちのときに観るなんて。
観た日:2008年4月5日(土)@恵比寿ガーデンシネマ
お気が向かれたら →

↓参考↓
悲しみが乾くまで@映画生活
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『悲しみが乾くまで』
"THINGS WE LOST IN THE FIRE"
2008年・アメリカ&イギリス・119分
監督:スザンネ・ビア
製作:サム・メンデス サム・マーサー
製作総指揮・脚本:アラン・ローブ
製作総指揮:ピッパ・ハリス
撮影:トム・スターン
音楽:ヨハン・セーデルクヴィスト
出演:ハル・ベリー ベニチオ・デル・トロ デヴィッド・ドゥカヴニー
アレクシス・リュウェリン マイカ・ベリー アリソン・ローマン 他
バーク一家は幸せで完璧な家庭だった。夫のブライアン(デヴィッド・ドゥカブニー)は仕事で成功して、妻のオードリー(ハル・ベリー)は美しく、ふたりの子供たち・ハーパー(アレクシス・リュウェリン)とドリー(マイカ・ベリー)も元気に育っている。しかし、ある日、街で喧嘩を仲裁したブライアンは射殺されてしまう。夫を突然失ったオードリーは、悲しみのあまり現実を受け入れることができない。そんな彼女は、夫の親友・ジェリー(ベニシオ・デル・トロ)に「一緒に暮らしてほしい」と頼む。ブライアンの幼なじみで麻薬中毒者のジェリーは、周囲から見放されていたが、ブライアンだけは彼とのつきあいを大切にして、決して見捨てることがなかったのだ。
今、私が一番好きなデンマークの監督スザンネ・ビアのアメリカ進出初作品ということで、日本公開をとても楽しみにしていた。
これまでに観たビア監督の作品を好きな順に言うと、『ある愛の風景』、『しあわせな孤独』、『アフター・ウェディング』だった。今回、『悲しみが乾くまで』を観たら、3位がこの作品になった。ただ、どの作品も胸に響きすぎたから(昨年観た『ある愛の風景』と『アフター・ウェディング』は、衝撃と感激がまとまらなくて、感想文が書けていないほど。今年こそ書きたい)、ビア監督の映画というだけで、私にとってはもう別格だ。「一生、忠誠を誓いたい!」と思える監督さんと久々に出逢えたのである。
『悲しみが乾くまで』の設定を知ったとき、「『ある愛の風景』とちょっと似てるなぁ」と思ったのだが、いざ観てみたら、感情の映し出しかたは全然違った。『ある愛の風景』には戦争が絡んでいるので、戦争体験のない自分には、衝撃的すぎて共感にまで至れない部分があったが、『悲しみが乾くまで』のテーマは、もっと身近で、年齢や経験を問わず誰にでも起こりうることだから、登場人物の気持ちを把握しやすかったのだ。
ごく普通に生きる人々の心にある、弱い面や脆い面を、「ああ、ここまでえぐっちゃうかぁ……」と、観ていて息苦しくなるほど、緻密で残酷に生々しく描写するのがビア監督である。特に、「喪失感」や「ずるさ」、「うしろめたさ」の表出が秀逸で、その容赦のなさが、私は好きでたまらない。
そういった徹底した感情描写はもちろん、音楽が控えめで静謐さ漂う映像も、具体的なストーリィが前面に出ない「キャラクターの生活を淡々とそのまま見せている」という印象の構成も、これまでのビア監督の作品と同じだったから、「アメリカ進出(それも、ドリームワークスの作品)っていうことで、いかにもアメリカっぽい映画になっちゃってたらどうしよう……」という不安は杞憂で終わった。「どこからどう観ても、デンマークのあのスザンネ・ビア!」という映像の中で、ハル・ベリーやデル・トロのような世界的に有名な役者が動いていることに、失礼ながら違和感を覚えたくらい。
……やはりというかなんというか、ビア監督の作品は今の自分にとって特別すぎて、この監督に言及するだけで興奮してしまうから、落ち着いた文章にならない。全然まとまらない。でも、支離滅裂のまま続ける。
で、『悲しみが乾くまで』の内容に関する感想は、ネタバレ気味に書くので、それでも構わないというかたは、↓《続き》↓へお進みください。
《続き》
「忠誠を誓いたい監督だ!」とまで言ったくせに、『悲しみが乾くまで』を褒めるつもりはあまりない、実は。
いや、よかったのだ、充分。ビア監督は追い続けたい。これからも。
ただ、今作、ハル・ベリー演じる主人公のオードリーが「環境的・金銭的に恵まれすぎている」のだ。それがもう、私にはひっかかってひっかかってたまらなかった。
普通、おとなが大切な人を失ったとしても、葬儀のためにせいぜい1週間程度しか休めないで、悲しいとかなんとか、とりあえず表面的にはぐちぐち言っていられないうちに、仕事に戻るなりなんなりしないといけない。だって、「生活していかなくてはいけない」から。生活費を稼がないとならないのだ。
だけど、オードリーは違う。射殺された夫のブライアンは、仕事で成功してリッチだったので、彼が突然いなくなっても「オードリーと子供たちは、なに不自由なく暮らしていけちゃう」というわけ。
オードリーは、夫が死んだという現実を受け入れられない。それはしかたないだろう。悲しいのも、喪失感を味わうのも当然だ。でも、彼女は「悲しくてたまらないの」という気持ちのままに、自宅にこもって無口になっている。ジェリーにやつあたりをする。でも、ジェリーはオードリーを責めるどころか、オードリーの気が済むまで、彼女の口から飛び出すきつい言葉を浴びる。
贅沢すぎるよ、オードリー。
一家の大黒柱を失った専業主婦が、「これからは自分で稼いで子供たちを育てなくてはならない」という金銭的にせっぱつまった問題にぶちあたることもなく、ただ悲しんでいる。泣いている。おまけに、そんな彼女のずるいわがままにつきあってくれる男までいる。
夫が死んで以来、上手に眠れていないオードリーが、あるとき、ジェリーにこんなことを頼む。「夫と同じように寝かしつけてほしい」と。同じベッドに横になって、体をぴったりくっつけて、「ジェリーに耳たぶを指でいじってもらう」。でも、当然、エッチはなし。オードリーは「眠りたいだけ」だから。まあ、ジェリーが彼女を抱きたいと思ってたかどうかはわからないけれど、いくらオードリーの心が「夫を失ったばかりで、悲しみの極限状態にある」からといって、これはジェリーに対しての気遣いが欠けすぎている行いに思えてならなかった。おまけに、彼女、こんなことしてもらった直後に、別件でジェリーにやつあたりするし。
「これ以上にないくらい、悲しくてつらい」という経験をしたおとなが、その苦しさが癒えるまで仕事をしなくてよいとしたら、そんなに恵まれていることはない。生活費や住む場所の心配をしないで、ただひたすら悲しみと向き合える時間と環境があって、おまけに慰めてくれる「おもり役」までいるなんて、最高の贅沢だ。「悲しいときこそ仕事があったほうが幸せだ」という人もいるかもしれないけれど、その仕事が好きでやり甲斐があるなら、そうだろう。でも、多くの庶民は「好きかどうかは置いといて、とにかく『食べていくため』に、給料制・時間給制で働いている」はず。忌引きで職場を休めるのだって、せいぜい1週間ってところだ。悲しみが癒えるまで時間を気にせず休みたい、なんて言ったら、クビになってしまうじゃないか。
……映画の感想じゃないなぁ、これは。ただの愚痴だ。
この作品を観たときの自分のコンディションは、お世辞にもよくはなかった。「生活をしていくこと」、「食べていくための仕事」、「これだけでは食べてはいけないけど、やりたい仕事」、「将来設計」、これらに関する理想と現実について悶々と考えてばかりで、考えれば考えるほど不安になって、最終的には、卑屈さのかたまりになっていた。「自分=卑屈」という図式が成り立つんじゃないかというくらい、醜い意味で気持ちがぐちゃぐちゃだったときに観た『悲しみが乾くまで』。……夫を失っていようがなんだろうが、オードリーの環境とライフ・スタイルが、私は羨ましくて羨ましくてたまらなかったのだ。
『悲しみが乾くまで』は、オードリーが立ち直る過程を描いただけの作品ではない。麻薬中毒者・ジェリーの再生の物語でもある。こちらのほうが、映画のハイライトともいえる。オードリーはジェリーに支えられたが、今度は彼女がジェリーを助ける側になるのだ。後半のこの展開、とても見応えがあった。
そう、確かに見応えはあったのだけれど、その頃にはもう、私はオードリーへの勝手な羨望と嫉妬でいっぱいで、心がぐるぐるになっていたから、巧みな構成に感心したり、ジェリーの更正を応援してあげたりするような気持ちの余裕がなかった。「私は自分を応援するので精一杯だよ!」という気分だったから。
人の心が抱える「つらさ」を切りひらいて細部まで徹底的に見せる、というビア監督の個性と色は、『悲しみが乾くまで』でもたっぷりと味わえる。この監督の世界観が大好きなことに変わりはない。
ただ、今後、「公開を待ち望んでいた映画」や「好きな監督の映画」は、心のコンディションが、完璧とまではいかなくても(ないよね、そんなときなんて)、「ちょっとはまし」程度になるまで待ってから観に行こう、と自分への反省として強く思った。……映画に失礼だったんだよ、こんな気持ちのときに観るなんて。
観た日:2008年4月5日(土)@恵比寿ガーデンシネマ
お気が向かれたら →
↓参考↓
悲しみが乾くまで@映画生活


