イタリアはミラノ生まれの、アレッサンドラ・フェリというバレリーナがいる。英国ロイヤル・バレエ団やアメリカン・バレエ・シアター、そして、ミラノ・スカラ座バレエ団で、トップ・バレリーナとして活躍したダンサーだ。
2007年の今年、彼女が引退を表明した。引退公演も終えた。今年、44歳。バレリーナが引退を決めるのに、珍しくはない年齢である。
このブログでも何度も書いていることだが、私が世界で一番愛しているダンサーは、
ヴィヴィアナ・デュランテ、ただひとりである。たとえどんな演技や言動を展開をしようとも、私にとって唯一で稀有で「神様」のバレリーナは、ヴィヴィアナただひとり。昔も今も、それは変わらない。ヴィヴィアナは最近、演劇という声を伴う舞台にもチャレンジしているそうだ。彼女のバレエを愛する自分としては複雑な思いがするが、ヴィヴィアナの多方面に渡る活躍は、素直に嬉しい。できることなら、それを生で観たい。
話が逸れた。バレリーナについて、である。
ヴィヴィアナをきっかけにバレエという芸術にはまって観続けていて、彼女のような「ドラマティック・ダンサー」を追い求めていたとき、アレッサンドラ・フェリの来日公演を生で観るという、幸運な機会に恵まれた。ラッキーは続いて、フェリが主役を務めた舞台を、数回観ることができた。『ロメオとジュリエット』、『メリー・ウィドウ』、『ジゼル』、そして、『カルメン』。私の記憶の宝物である。私の中で、フェリは瞬く間に特別なダンサーのひとりになった。ルシア・ラカッラ、アニエス・ルテステュ、吉岡美佳、斉藤友佳理、オーレリ・デュポン、……好きなダンサーはたくさんいて、書ききれない。だが、「ヴィヴィアナの次に愛するバレリーナ」として、アレッサンドラ・フェリは、私の中で不動になった。
忘れられない思い出がある。ローラン・プティ振付の『カルメン(全幕)』を、ヴィヴィアナ・デュランテ&熊川哲也が踊った舞台を生で観たとき、ヴィヴィアナのステージだったというのに私は、「あんまり面白くなかったなぁ。予想してたより、感動しなかった」と感じたのだった。バレエでの『カルメン』という題材、もともと、私はとても好きである。アルベルト・アロンゾという元ダンサーでコリオグラファーでもある彼の作品を、アレッサンドラ・フェリが踊る舞台を生で観られた幸運があったおかげで、この演目を愛するようになったのだ。だから、プティ版をヴィヴィアナが踊った舞台にぴんとこなかったとき、「コリオグラファーが違ったせいだろうなぁ。アロンゾ版をヴィヴィアナが踊るのを観たかったなぁ」と、のんきに思ったのだ。
幸か不幸か、私はその数ヶ月後に、アレッサンドラ・フェリが踊る「ローラン・プティ版の『カルメン』」を生で観る機会に遭ってしまうのだ。「世界バレエ・フェスティバル」での1演目だったのである。つまり、フェリの舞台は全幕ですらなかった。
プティ版で踊っていた、フェリのカルメン。……目を疑うほど感動的だった。妖艶だった。リアリティばりばりだった。信じられなかった。どうしてよいのか、わからなかった。観終えたあと、しばらく呆然としてしまって、我に返るまで時間がかかってしまった。帰宅するまでも、夢見心地で、衝撃で、自分の精神がふわふわと浮きあがっていた。
「同じプティ版でも、ヴィヴィアナよりフェリのほうに感銘を受けてしまった」ということに、私はこの上ない悔しさを味わってしまったのである。コリオグラファーのせいでヴィヴィアナに感動しなかっただけだと思っていたのに。ダンサーの違いが問題だとは思っていなかったのに。
フェリのバレエは好きだ。大好きだ。しかし、自分の中でフェリが、たとえ1作品でもヴィヴィアナを越えた印象を残してしまったことに、どうしてよいのかわからなくなってしまったのである。……2007年が終わろうとしている今、私にとっては今でも、ヴィヴィアナ・デュランテこそが最愛のダンサーだ。私にとって、ヴィヴィアナだけが、白眉のドラマティック・バレリーナである。
だが、アレッサンドラ・フェリという人も、生涯忘れられないダンサーなのだ。
私がバレエで好きな演目は、『ロメオとジュリエット』と『ジゼル』である。ジュリエットを演じるヴィヴィアナとフェリ、『ジゼル』のタイトル・ロールを演じるヴィヴィアナとフェリ、いずれも、生で観る機会に恵まれた。どの舞台も、言葉にできないほど素晴らしかった。だが、ファン視点という贔屓目で、私はヴィヴィアナに軍配をあげる。ヴィヴィアナを選ぶ。少なくとも、「生」の感慨では。
しかし、同じ生で観た、ふたりそれぞれのプティ版『カルメン』で、私は、ヴィヴィアナよりもフェリのほうに感銘を受けた、と言わざるを得ないのだ。あれほど「足の甲が饒舌」なカルメンを、後にも先にも、私は観たことがない。
順位をつける事柄ではないのだと、百も承知である。ただ、たとえ1演目・1役だけでも、私の中でヴィヴィアナを越えた唯一の存在が、アレッサンドラ・フェリの踊るローラン・プティ版『カルメン』のタイトル・ロールだったのだ。
アレッサンドラ・フェリという人は、たとえばマイヤ・プリセツカヤやニーナ・アナニアシヴィリ、そして、シルヴィ・ギエムのように、後世まで歴史に名を残すダンサーであろう。私が今更、「すごいよ!」と言わなくても、バレエ・ファンなら認識しているに違いない存在だ。しかし、改めて、言わずにはいられない。アレッサンドラ・フェリは、バレエ界の至宝のひとりだ。ドラマティック・ダンサーの代表だ。丈の短いチュチュで可憐に踊るだけがバレリーナではないのだと、生々しい感情を秘める女もバレエの重要な登場人物なのだと、私たちにそう教えてくれた、二度と現れないダンサーのひとりだと思う。
彼女が現役を引退した。これからは、映像に記録された舞台でしか、彼女のバレエを観られない。
そう思うだけで、涙が出てくる。踊る彼女を観られるビデオとDVD、今までもそうだったが、これからも大切に大切に、……大切にしようと思う。